2017年




ーーー4/4−−− 田舎のファッションリーダー


 
ある日の夜、松本市内で、友人夫婦と食事会をした。会が終わり、松本駅で大糸線に乗った。車内はそこそこ混んでいたが、立ったまま話をしている若い男女十名ほどの集団が目に付いた。男女と言っても、男性は一人だけである。その男は、外人かと見違えるほど派手なメイクで、服装や靴も極端に派手で、ひときわ目立った。女性たちの中には、スタッフカードのようなものを首から下げている人もいたから、何かのイベントが終わり、その帰り道だったのかも知れない。

 男性は、その集団のリーダー的存在のようだった。女性たちが、熱心に話を聞き、また質問をしていたのである。いずれの女性も、男性を見る視線が熱かった。第一印象としては、パンクロックのミュージシャンかと思われたが、漏れ聞こえる話題から察すると、ファッション関係のようだった。女性たちとの会話に真剣に応対する態度は、当初の軽い印象とは裏腹に、真面目で誠実なものが感じられた。

 列車が進むうちに、女性たちは一人二人と下車した。そして男性は有明駅で降りた。彼が降りた後、残った二人の女性は座席に座って話し出した。近くの席だったので、断片的に話が聞こえてきた。「ものすごく勉強になったよねー」、「やっぱ、なんといっても人間関係とか人脈だよねー」というような言葉が、興奮気味に語られていた。

 ところで、有明駅は、我が家にとってもっとも身近な駅である。その晩は、車を置いてある関係から、その二つ先の駅まで乗ったが、過去には子供の送り迎えなどで、よく有明駅を利用したものだった。地元感覚に直結した存在の駅なのである。そんな駅で、憧れのファッションリーダーが下車したというのが、なんだか微笑ましかった。

 こんな連想が浮かんだ。

 男性の母親が、車で迎えに来ている。そして開口一番、「まーずお前は、こんな遅くまで何やってんだ? まったく変てこりんな格好をしてよぉ、おらぁご近所に顔向けできねえだ。ちったあまともな仕事について、おらを安心させてけろ」。

 「母ちゃんそんなこと言わなんで。おらだって一生懸命やってるだよ。そのうちひと花咲かせるでね。もうちょっと見守っておくれでないかい」




ーーー4/11−−− 胃カメラ


 
この3月初め、友人夫妻と松本で会食をしてから後3日間ほど、胃の辺りに痛みを覚えた。レストランの料理に原因があったかどうかは分からない。一緒に食事をした家内は何ともなかった。ただ、私としては、生魚に取り付いた寄生虫が、胃壁に食い付いて痛みをもたらす事があるという話を思い出して、気持ちがざわめいた。

 その症状は3日ほどで消えたが、その後もなんとなく胃の具合が悪かった。正しく言えば、具合が悪いと言うほどではなかったかも知れない。ただ、空腹感が無く、いつもお腹が満たされているというような違和感であった(窮乏地域の人々に対しては、誠に申し訳ないような違和感である)。それでいて食欲が無いわけではなく、目の前に食事が出れば、ガツガツと食べられるのであったが。

 自分としては珍しく弱気になって、総合病院へ出かけた。内科医と面談した結果、胃カメラ(内視鏡検査)をすることになった。7年前に人間ドックをやって以来、一度も健康診断を受けたことが無いと言ったら、医師は表情を硬くした。それで、血液検査および検尿もさせられた。

 一週間後の予約の日、胃カメラを呑んだ。正直言って、とても不安だった。ガンでも見付かったらどうしようと、心配した。胃カメラが終わり、内視鏡の担当医から画面を見ながら説明を聞いた。意外にも、全く問題ないとの所見だった。それを聞いて、体の力が抜けるような気がした。これは正直に嬉しかった。

 ところで、胃カメラを呑む際に、看護師から「とても上手です」と褒められた。7年前にも、同じように褒められた。誰にでもそう言うのかも知れないが、言い方のニュアンスからして、自分は本当に上手いのかと思った。今後なにかの機会に特技を聞かれたら「胃カメラを呑むことです」と答えようか。

 胃カメラの後、内科医と面談した。血液検査も、検尿も、結果は問題ないと言われた。酒の飲みすぎで肝臓が心配だったが、それも正常だと。医師はちょっと白けた感じだった。何故この患者はここに(病院に)来たのだろうか、と。

 最悪の事態まで想定して臨んだ検査だった。それが杞憂に終わって、有り難かった。これからは、その最悪の想定を忘れずに、日ごろの生活に気を付けようと思う。医師が言った次の言葉も、心に留めたい。

 「これからは、ちゃんと健康診断を受けて下さいね」




ーーー4/18−−− 便利な空気入れ


 以前子供たちのスポーツ大会へ出かける際に、あるコーチの車に乗せてもらった。駐車場でトランクを開けたら、自転車の空気入れが入っていた。持主は、タイヤの調子が悪く、空気が抜けるので、いつも空気入れを乗せているのだと説明した。子供たちは、「へえーっ、おもしろいね」などと言ってはしゃいでいた。私は、「そうですか」と聞き流したが、心の中では「そんな事はありえない」と思った。自転車の空気入れで自動車のタイヤに空気を入れられるはずがない。第一口金が合わないではないか。

 二十年以上使ってきた我が家の空気入れ。だんだん調子が悪くなり、ピストンにグリスを塗るなどしながら使ってきたが、ついに使用不能に陥ったので買い換えた。ホームセンターの自転車売り場に行き、ごく普通の空気入れを買ってきた。ところが、ごく普通だと思った品物が、これまでの物といささか違っていた。

 普通の口金(自転車用の口金)の根元に、第二の口金が連結されていたのである。その口金にレバーが付いていて、そのレバーを起こすと、自転車用の口金が離脱した。そして残った口金が、自動車用のものだったのである。それを自動車のタイヤのノズルに挿し込み、レバーを倒すとノズルに固定される。その状態でポンプを作動させると、空気が入るのである。

 自動車のタイヤと言うと、ずいぶん力を入れなければ空気が入らないように感じるかも知れないが、そうではない。必要とされる空気圧は、自転車に比べれば低いのである。だから自転車用の空気入れでも十分に入る。ただし、ボリュームが大きいので、何度もピストンを押さなければならないが。

 空気圧計は、以前から使っている物がある。年に二回タイヤ交換をする際に、空気圧をチェックするために購入したものである。その空気圧計で確認しながら作業をすれば、この自転車用空気入れで、所定の圧力まで自動車のタイヤに空気を入れることができるというわけだ。

 シーズンの変わり目にタイヤを交換する時、圧力を計ってみると、ちょっと空気が抜けている場合がある。かといって、完全には抜けてないから、パンクではない。空気を入れるためにわざわざガソリンスタンドまで行くのも億劫だ。かと言って、空気不足のタイヤで走るのも気が進まない。そんな場合は、この自転車用空気入れでしのぐことができる。そう考えれば、便利な品物ではある。

 冒頭に述べたコーチの発言は、たぶん正しかったのだと、今では思う。車に積んであったのは、この手の空気入れだったのだろう。都会ではちょっと考えられないような事であるが、田舎の実用本位の生活では、こういう道具が昔からあったのではないかと想像した。




ーーー4/25−−− インドの宝石商


 
インドのパイプラインの仕事に関わっていた時のこと。出張先のニューデリーの宿舎は、ペンションのような建物であった。それを会社が借り上げ、社員の滞在場所として提供していたのである。その施設へ、夜になるとときどき、宝石商がやってきた。

 ある晩、「ジェーンが来ているからお前も見てみろ」と先輩社員に促されて、ロビーに降りた。「ジェーンの店」と呼ばれていたその宝石商は、二人連れのインド人で、いずれも細身の体にピッタリとしたスーツを決めていた。そしてどういうわけだか、二人とも何か思いつめたように表情が暗く、笑顔は全く見せなかった。

 ソファーに座った彼らの前のローテーブルに、アタッシュケースが開かれていて、中に宝石が並んでいた。

 他に二、三人の同僚がその場に居合せたが、彼らも私も、夕食後で酒が入っている。そうでなくても、海外出張中は出張手当という臨時収入があるので、金銭的な感覚がいささか鈍っている。取り巻きの同僚が面白半分に、宝石商よりも熱心に売り込みにかかる。新参者の私は、格好の餌食となった。

 エメラルドがお買い得だと言った。市中で買うより格段に安いと。もっとも、市中の相場など知るよしもない。しかし、「この店は心配ない、オレも何度か買った」と先輩は言った。また、「奥さんへの土産に、これほど良いものはない」と焚きつけられた。

 引くに引けない状況となり、エメラルドの指輪を買うはめになった。「でも、サイズが分からない」と食い下がると、「家へ電話して聞いてみろ」と言う。その当時すでにニューデリーから日本へ、直通の国際電話が掛けられた。

 余談だが、別の日に、やはりしたたか酔って自宅に電話をした時、国別番号を忘れてダイヤルしたら、しぶい男性の声で「Calling Norway?(ノルウェーにご用ですか?)」と言われて驚いた。

 さて、話は指輪に戻る。さっそく電話室へ行き、千葉の自宅に電話をした。真夜中に突然の電話で、家内は驚いたようだったが、用件は聞き出した。これで、サプライズの線は消えたが、まあ良い。家内の喜ぶ顔が目に浮かんだ。アタッシュケースの前に戻り、そのサイズの指輪を買った。いくらだったかは覚えてないが、そこそこの値段だったと思う。先輩は「お前も女房思いの、なかなかいい奴だ」と褒めてくれた。

 帰国して自宅に入り、家内にとっておきの土産を渡した。宝石箱の蓋を開け、取り出した指輪をしげしげと眺めた家内は、「なんかちょっと変ね、これ本当にエメラルドかしら?」と言った。










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